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After the fall of Saipan, the Japanese High Command predicted that the Allies would try to capture the Philippines, strategically important to Tokyo because of the islands' location between the oilfields of Southeast Asia and Japan. [citation needed], On 17 October 1944, Allied forces assaulted Suluan Island, beginning the Battle of Leyte Gulf. [21], Rear Admiral Masafumi Arima, the commander of the 26th Air Flotilla (part of the 11th Air Fleet), is sometimes credited with inventing the kamikaze tactic. Axell and Kase see these suicides as "individual, impromptu decisions by men who were mentally prepared to die". [33] The speedy Ohkas presented a very difficult problem for anti-aircraft fire, since their velocity made fire control extremely difficult. El grupo volvió en el año 2003 por un breve período, tras 11 años de separación, retornando una … The peak period of kamikaze attack frequency came during April–June 1945 at the Battle of Okinawa. Some kamikazes were able to hit their targets even after their aircraft were crippled. Naval War College Analysis, p.1; Parshall and Tully. Following the commencement of the kamikaze tactic, newspapers and books ran advertisements, articles and stories regarding the suicide bombers to aid in recruiting and support. [27] The Australian official history of the war claimed that this was the first kamikaze attack on an Allied ship. During World War II, the pronunciation kamikaze was used only informally in the Japanese press in relation to suicide attacks, but after the war this usage gained acceptance worldwide and was re-imported into Japan. Some of these escort pilots, such as Zero pilot Toshimitsu Imaizumi, were later sent out on their own kamikaze missions. It's all a lie that they left filled with braveness and joy, crying, "Long live the emperor!" 海軍航空隊における特攻の教育日程は、発進訓練(発動、離陸、集合)2日、編隊訓練2日、接敵突撃訓練3日を基本に、時間に応じこの日程を反復していた[310]。, 帰還する敵艦載機に紛れて接近しレーダー探知を回避する場合(丸で囲まれているのが特攻機), 支援隊と特攻機隊が、別方向から敵艦隊に突入し、支援隊が敵艦の対空砲火を引きつけている間に特攻機が突入する「時間差攻撃」の場合, 特攻に主に使われた零戦は元より空戦用にできているため急降下すると機首が浮き上がり、速度で舵も鈍くなるため正確に突入するのが困難という意見もあり[312]、沖縄戦時の菊水作戦中に第5航空艦隊参謀に就任していた中島正中佐が出撃する特攻隊員に「ダイブ(急降下)角は45度」という訓示をしているが、中島の訓示の後に第七二一海軍航空隊の林富士夫大尉が「中島中佐は自分が飛ばないからわからない。高い角度のダイブで突入することは不可能で、せいぜい20~30度である。突入は舷側を狙え」と中島の指示を訂正している[313]。, 突入角度が浅いと、特攻機の爆弾が敵艦を貫通しないケースも少なからずあった。特攻の戦果確認機からの過大戦果報告に疑念を感じていた軍令部次長大西が、第一航空技術廠長の多田力三中将に特攻の効果についての実験を要請している。その要請を受けて、第一航空技術廠と横須賀海軍航空隊は1945年5月に協同で、250kg爆弾を搭載した無人の零戦をカタパルトで射出し、様々な角度で鋼板に衝突させる実験を行った。その結果、30度以上の角度では爆弾も機体も鋼板を貫通するが、30度未満の角度では鋼板の上を滑って機体も爆弾も跳躍してしまうことが判明した。この実験結果を見て大西は、搭乗員の心理作用で突入角度が浅くなって、結果的に特攻機が敵艦を貫通できないケースがあることを認識している[314]。, 突入角度に加えて速度についても、戦後にアメリカ軍から「適切な角度で行えば通常の爆撃より速度が速い」という分析はされているものの[315]、上記の通り命中寸前まで機体を操縦可能という、特攻特有の利点を活かして、多種多様な角度で特攻機が命中しており、航空機による通常攻撃と比較し抜群に高い有効性を確保していたが[注 12]、一方で、浅い角度で突入した場合は、重力による加速が深い角度で突入した場合と比べると劣るため、平均的な命中速度は通常の爆撃の投下爆弾よりは遅かった[316]。従って、特攻による艦内部の破壊は平均すると通常の航空攻撃(魚雷攻撃を含む)よりも少なく、駆逐艦においては、通常の航空攻撃(魚雷攻撃を含む)での被害艦の沈没比率は28.9%であったが、特攻による沈没率は13.7%と約半分であった[316]。, しかし、沖縄戦で富安俊助中尉が搭乗する零戦が空母「エンタープライズ」を大破させたときの最終突入角度は50度に達しており、深い角度で突入した事例もある[317]。一方で、フィリピンにおいて護衛空母「セント・ロー」に命中した敷島隊の零戦は、まるで着艦でもする様な高度(30m)で接近してきてそのまま時速480km/hで浅い角度で体当たりしたが[318]、搭載爆弾は甲板を貫通、格納庫で爆発し、燃料や弾薬を誘爆させ合計7回の爆発を経た後に、特攻機命中からわずか32分後に爆沈した[319] ように、突入角度が浅かったり、速度が遅くても敵艦に深刻な損害を与えた事例も多く、一概に突入角度や速度だけが敵艦に与える損害を決定する要素とはならない。, そもそも、艦艇の喫水線より下を攻撃して艦艇に浸水させることができる魚雷攻撃と異なり、原則的に喫水線より上を攻撃する爆撃や特攻によって大規模な浸水被害が生じることはまれであり[320]、攻撃の性質的に沈没率は高くはないことは日本軍も認識しており、少数の特攻機の命中でも、大型艦に致命的打撃威力を発揮できる、画期的威力増大策の研究を行っている[321]。しかし、特攻機はその搭載された航空燃料が武器となり、命中時には航空燃料による火災を発生させることが多かったので、いわば爆弾とナパーム弾が同時に命中したような効果が生じた[322]。特攻機の命中によって生じた火災は、被害艦を沈没まで至らせなくても重篤になることが多く、艦の損傷を拡大させ、多くの人員に重篤な火傷を負わせて戦闘不能にさせ、適切な消火に失敗すると艦を再起不能の損傷に至らせている[323]。そのため、特攻機は爆弾を搭載していなくとも、極めて強力な焼夷弾となったと評している[269]。沖縄戦においては、特攻により生じた大量の損傷艦のために慶良間列島の泊地は常に満杯であり、損傷艦は工作艦により応急修理がなされると、随伴艦と一緒に群れを成して太平洋を横断してアメリカ本国に帰還した[252]。特攻による損傷艦の中には、護衛空母「スワニー」のように、艦設計の際に考慮されていなかった程の甚大な損傷を負った艦や[127]、正規空母「バンカーヒル」のように、ピュージェット・サウンド海軍工廠で修理を受けた艦船の中では最悪の損傷レベルと認定された艦もあった[324]。甚大な損傷を負った艦の中には、修理不能と診断されてそのままスクラップとなった艦も少なくない[245]。, 一方で、第二次世界大戦末期のアメリカ軍は、それまでの戦闘経験によりダメージコントロールが格段に進歩しており、特攻による撃沈率を低減させるに成功している。例えば、硫黄島の戦いで海軍の第二御楯隊が大破させた正規空母「サラトガ」の損傷具合は、太平洋戦争初期に珊瑚海海戦で沈没した「レキシントン」より遙かに深刻であったと、両艦のいずれの被爆時にも乗艦していたパイロットのV・F・マッコルマック少佐が証言しているなど、大戦初期や中期においては放棄されたような状況の艦ですら救われることが多くなっていた[325]。アメリカ軍は、特攻により大量の損傷艦が生じたのを振り返って、艦艇が沈没までは至らなくとも、多くの場合は修理のためにアメリカ本国の造船所に帰還せねばならず、作戦上の損失は大きかったと結論づけている[269]。, 特攻機の突入角度の例、突入寸前まで操縦が可能なため、通常の爆撃では命中不可能な浅い角度でも突入できた。, 「エンタープライズ」に富安俊助中尉が搭乗する零戦が約50度の急角度で突入した瞬間。爆発の先端に吹き飛んでいるのがエレベーター。, 軽空母「ベローウッド」の飛行甲板後部に神風特別攻撃隊葉桜隊の1機が命中し艦載機が炎上, 日本海軍軍令部が想定していた特攻機の搭載爆弾別の威力は下記の通りであった[326]。, これは想定であり、実戦で必ずしもこの通りになったわけではないが、正規空母や軽空母を撃沈するためには、250キロ爆弾を搭載した零戦が8機以上も命中する必要があると軍令部は想定しており、事実、巡洋艦以上の大型艦艇を撃沈することはできなかった。アメリカ軍も「45隻の艦船が沈没したが、その多くは駆逐艦だった。日本は大型艦を沈めたという膨張された主張に彼等自身騙され、大型艦を沈めるにはより重量のある爆発弾頭が必要であるという技術者達の忠告を無視した」[327]、「大型機を別にすれば、陸海軍機のすべては、威力不十分な爆弾を使用していた。連合軍の主力艦が自殺機によって、1隻も撃沈されなかった理由のひとつも、このあたりにあった」と総括し[315] と特攻機に搭載された爆弾の威力不足を指摘していた。, 搭載爆弾を大型化すれば、威力向上するのを日本軍も理解し様々な対策を講じたが、爆弾が大型化すればするほど特攻機の搭載重量は増え運動性は低下するため、飛行が困難になるばかりでなく敵の迎撃の好餌となってしまった。特に大重量爆弾を搭載できる双発機は、アメリカ軍の特攻対策マニュアル『Anti-Suicide Action Summary』にて「桜花母機及び、潜在的な母機となりうる双発機を最優先で攻撃すること。」と、特攻兵器桜花を警戒していたアメリカ軍から優先攻撃目標とされていたため[328]、敵艦への接近が非常に困難になっていた。, これまでの戦訓により、大型爆弾を搭載した特攻機が敵の激烈な迎撃を突破することや、1隻の敵艦艇に多数の特攻機が命中するのが困難と認識した軍令部は、少数の特攻機の命中でも、大型艦に致命的打撃威力を発揮できる、画期的威力増大策の研究を行い、下記の検討を行っている[321]。, 終戦までに具体化したものはなく、「中央当局の努力にもかかわらず終戦までに具体的に搭乗員の崇高なる特攻精神にふさわしい威力を具備した特攻機は出現しなかった。」と総括されている[329]。, 艦艇を撃沈するためには、魚雷により喫水線下を攻撃するのが最も効果的であったが、特攻を開始した大戦末期には、魚雷を抱いて、強力な敵戦闘機の防御網を突破して、敵艦に肉薄して雷撃を行うことができる熟練搭乗員は極度に不足しており、その代わりとして高い命中率が期待できる零戦による特攻が企画された[330]。爆弾を搭載しての特攻は、雷撃に対して威力が相当に劣るため、突入方法や敵艦艇の突入目標箇所などの研究が行われている[331]。, 大戦末期には、それまでの戦闘による消耗で特攻に投入できる機体が枯渇しており、練習機や水上偵察機も特攻に投入された。九三式中間練習機、二式中間練習機、九五式水上偵察機、零式観測機、零式練習戦闘機は、250キロ爆弾1発。機上作業練習機「白菊」、九四式水上偵察機、零式水上偵察機は、250キロ爆弾2発を搭載して特攻に出撃した[176]。, 菊水七号作戦中の1945年(昭和20年)5月24日の夜間に初の白菊特攻隊、第一次白菊隊14機が串良の航空基地から出撃した。故障や不時着の3機を除き11機が未帰還となったが、一部が敵艦隊に到達している。沖縄戦で特攻を指揮した第5航空艦隊司令部はアメリカ軍の無電を傍受しており、「時速160km~170kmの日本軍機に追尾されている。」というアメリカ軍の駆逐艦の無電を聞いた一人の幕僚が、「駆逐艦の方がのろい白菊を追いかけているんだろう。」と笑う有様で[332]、第5航空艦隊司令官宇垣纏中将も「夜間は兎も角昼間敵戦闘機に会して一たまりもなき情なき事なり(中略)数あれど之に大なる期待はかけ難し。」と白菊特攻について厳しい評価を下し、夜間や黎明に限定して投入することとしている[333], しかし、軍による低い期待とは裏腹に練習機や偵察機の特攻は戦果を挙げており、アメリカ軍側の記録により確認できる戦果だけでも、1945年5月4日には、九四式水上偵察機がF4Uコルセアの迎撃を巧みにかわすと、駆逐艦「モリソン(駆逐艦)(英語版)」の航跡の上に一旦着水、航跡の上を滑走しながらモリソンを追尾し、離水するとそのまま超低空で砲塔に突入して火薬庫を誘爆させた。モリソンは8分間で轟沈し[334] 死傷者255名にも上り、無事だったのは、誘爆で海中に投げ出された71名に過ぎなかった[335]。, 1945年5月27日の海軍記念日に出撃させる特攻機が枯渇していた海軍は、やむなく白菊を出撃させた。この日、鹿屋基地に第五航空艦隊司令部付将校として配属されていた野原一夫少尉は、通信室でアメリカ軍の無電を傍受していたが、やがてアメリカ軍駆逐艦や警備艇が「海面すれすれの、30mぐらいの低空に奇妙な物体がいくつか見える」「飛行機にしてはあまりにスピードがスローである。何だろう、爆音が聞こえてきた。やはり飛行機かもしれない」「太った雌鶏が空を飛んでいる。あれはボギー(敵機)だ」「ボギーにしてはスピードが遅すぎる、先日も飛んできた。ボギーに間違いない」という無電を発したのを聞いている[336]。この白菊隊は、雨雲を抜けると駆逐艦「ドレクスラー」に突入した。「ドレクスラー」乗組員からは、接近してくる白菊は時代遅れの練習機には見えず、操縦しているのも、経験を十分積んだ熟練パイロットのように見えたという[337]。白菊のうち1機は、「ドレクスラー」の艦後部に突入してボイラー室と機械室を破壊し、航行不能に陥らせた[337]。, このとき「ドレクスラー」が発したと思われる「甲板上大火災」「至急救援たのむ」という無電を傍受した通信室の野原ら将校は「突っ込んだんだ、白菊が。白菊だ。やったぞ」と歓喜している[338]。この後、「ドレクスラー」にはもう1機の白菊も突入し、たちまち転覆して沈没した。あまりに沈没が早かったため、乗組員158名が死亡、艦長を含む52名が負傷した[339]。その後も、1945年6月21日に輸送駆逐艦(高速輸送艦)「バリー」とLSM-1級中型揚陸艦「LSM-59」の合計3隻を撃沈し[340]、1945年(昭和20年)5月29日に駆逐艦「シュブリック(駆逐艦) (英語版)」[注 13][341][342]、1945年(昭和20年)6月21日に中型揚陸艦LSM-213の2隻を大破させ[343]、その後、両艦は修理が断念されて、スクラップとなった[344]。, 終戦直前の7月29日に93式中間練習機7機で編成された「第3龍虎隊」が宮古島から出撃、「第3龍虎隊」は2日にわたってレーダーピケット艦を攻撃し、突入した7機で駆逐艦の「キャラハン」を撃沈し、「カシンヤング(駆逐艦)(英語版)」を大破させて、「プリチェット(駆逐艦)(英語版)」と「ホラス・A・バス(輸送駆逐艦)(英語版)」を損傷させた。この4艦で74名の戦死者と133名の負傷者が生じた[345]。, わずか7機の93式中間練習機に痛撃を被ったアメリカ軍は、練習機での特攻を脅威と認識、効果が大きかった要因を以下のように分析し、高速の新鋭機による特攻と同等以上の警戒を呼び掛けている[328], アメリカ側は練習機や水上偵察機や九九式艦上爆撃機の様に、通常攻撃ではアメリカ軍艦艇に打撃を与えることが不可能となっていた、低速機、複葉機、旧式機などが、特攻では戦果を挙げていることを見て「特攻は、複葉機や九九式艦上爆撃機のような固定脚の時代遅れの航空機でも作戦に使用できるという付随的な利点があった」と評価している[268]。, 特攻隊員の選抜については、大西が軍令部に航空特攻の開始を進言した際に総長の及川より「あくまでも本人の自由意志に基づいてやってください。決して命令はしてくださるな」と念を押されたように、原則は本人の志願に基づくものとされていたとする意見もあるが[346]、一方で、最初の神風特攻隊「敷島隊」の指揮官となった関の志願を命令に近い打診だったと考え、初めから志願者のみという原則は徹底されていなかったとする意見もある[347]。志願にあたっては「親一人、子一人の者」「長男」「妻子のある者」を除外することとしていたが、これも徹底はされていなかった[348]。, 桜花搭乗員の募集は、フィリピンで特攻が開始される前の1944年8月中旬から始まっており、海軍省の人事局長と教育部長による連名で、後顧の憂いのないものから募集するという方針が出されている[349]。台南海軍航空隊では、司令の高橋俊策大佐より、搭乗員に対して「戦局は憂うべき状況にあり、中央でとても効果が高い航空機が開発されているが、それは死を覚悟した攻撃である」との説明があり、「確実に命を落とすが、現状打破にはこの方法しかない、海軍としてはやむを得ない選択であり志願を募る」と告げた。ただし妻帯者、一人っ子、長男はその中から除外された。3日間の猶予を与えられたが、海軍飛行予備学生第13期の鈴木英男大尉は「自分の命を引き換えに日本が壊滅的な状況になる前に、有利な講和交渉に持ち込めたら」「我々の時代は大学に進学するのはエリートであり、将来的に国のために尽くしてくれると、世間の人たちから大事にしてもらってきた厚意に報いたい」という気持ちで志願している[350]。, 関らの成功により特攻志願者は増えたが、フィリピン戦の時点では選抜は原則志願を徹底するように慎重に行われていた。敷島隊の突入の10日足らずのちの1944年11月3日に元山海軍航空隊で特攻の志願者を募ったが、その際司令の藤原喜代間少将は「熟慮のうえで志願するように」と伝え、志願者が司令官公室に出向いてくると「後顧の憂いはないのか」と再度念を押している。志願者が意志を曲げない場合でも「君の希望を中央に連絡する」と即答を避けた。それでも選抜されない場合もあり、海軍飛行予備学生第13期の土方敏夫少尉の場合は、3回志願したがついに選抜されることはなかった[351]。, 一航艦参謀だった猪口力平によれば、アメリカ軍が沖縄まで侵攻し、菊水作戦で特攻がより大規模になると様相は変わり、一時の感情にかられて志願する者や、また周囲の雰囲気に流されて、同調圧力で志願する者も多くなったという[352]。高知海軍航空隊は練習機白菊による搭乗員訓練の航空隊であったが、戦局も逼迫した1944年末に横須賀鎮守府より特攻隊編成の訓示があり、航空隊司令加藤秀吉大佐から各員に「特別攻撃隊を編成するから、志願する者は分隊長に申し出るように」との指示があった。各人の意志に委ねられた形式で積極的に志願した者が多かったが、中には、搭乗員である以上は勇ましい志願をせざるを得ず、やむなく志願した者もいたという[353]。筑波海軍航空隊では海軍飛行予備学生の訓練生に志願が呼びかけられたが、特攻に志願しないと飛行機に搭乗することができず、防空壕掘りか、代用燃料の松根油の材料であった松の根掘りに回されるという噂が立ち、自尊心から特攻を志願した者もいた[354]。, また、形式的な志願もない特攻出撃を命令されることもあった。指揮官の美濃部正少佐が特攻を拒否したと言われる夜間戦闘機隊の芙蓉部隊において、1945年2月17日、ジャンボリー作戦で日本本土を攻撃してきた第58任務部隊に対して、美濃部がかねてより温めてきた「黎明に銃爆撃特攻隊を準備し、最後は人機諸共に(空母の飛行)甲板上に滑り込み発進準備中の甲板上の飛行機を掃き落とす」[355] という対機動部隊特攻戦術で攻撃するべく、美濃部は出撃する搭乗員らに「空母を見つけたら飛行甲板に滑り込め」や「機動部隊を見たらそのままぶち当たれ」と命じて、別れの盃(別盃)を交わしているが[356]。この日出撃した河原政則少尉の記憶では、指揮所に行くと志願をしてもないのに自分の名前が出撃者名簿に記載されていたという。美濃部は別盃が並んだテーブルを前に、河原ら特攻出撃者の一人一人と握手を交わしたが、出撃した特攻機は敵艦隊を発見できずに引き返した[357]。同様な別杯をかわしての特攻出撃命令は、沖縄戦中の5月25日にも出されている[358]。美濃部は「特攻は戦機に乗じ臨機必死隊を出すべきものにして常用するは戦闘の邪道なり」と考えていた[359][360]。, 航空隊全体が特攻を命じられることもあり、第二〇五海軍航空隊については103名の搭乗員全員が、「特攻大義隊員を命ず」との辞令で特攻隊員に選抜されている[361]。沖縄戦で特攻機の護衛や要撃任務に就いていた第二〇三海軍航空隊戦闘303飛行隊に対しても「特攻隊員を〇人出せ」というような命令が来たが、飛行長の岡嶋清熊少佐が「戦闘機乗りというものは最後の最後まで敵と戦い、これを撃ち落として帰ってくるのが本来の使命、敵と戦うのが戦闘機乗りの本望なのであって、爆弾抱いて突っ込むなどという戦法は邪道だ」という信念で、容易にはその命令に従わなかった[362]。しかし、特攻が開始された直後のフィリピン戦においては、1944年10月29日に岡嶋が全搭乗員32名を整列させて特攻志願者を募り、全員が志願したためその中から3名を選抜している[363]。, 民間航空機搭乗員を希望して乙種海軍飛行予科練習生第18期生として土浦海軍航空隊に入隊した桑原敬一は、ある日、講堂に集合させられ、参謀より「戦局悪化により特攻隊編成を余儀なくされたので、諸君らの意思を確認したい。各人に用紙を渡すから明日までに特攻志願する場合は所属部隊名と氏名を用紙に書き、志望しない場合は白紙で出すように」と言われた。各隊員は来るべきものが来たという気持ちで、複雑な心境ながら翌日に大多数は志願したが、白紙で提出した隊員も少なくなかった。しかし後日の参謀からの言葉は「諸君の意思は全員熱望であり、ただの一人の白紙もなかった」という意外なものであった。その言葉を聞いた桑原は憤りで頭にカアッと血が上ったと言う。桑原はこの自分の体験により、末期の特攻志願は似たような志願の強制事例が横行していたと考えていた[364]。, 終戦後に、米国戦略爆撃調査団は特攻に対して詳細な調査を行ったが、海軍兵学校卒の現役士官4名、学徒出陣の海軍飛行予備学生2名に対して、特攻の志願について事情聴取を行っている。アメリカ軍調査官ヘラー准将の「特攻は強制であったか、志願であったか?」との質問に対して、兵学校出身の現役士官は「全て志願であった、しかしフィリピンでは戦況によって部隊全部が特攻出撃したこともある」「内地で募集した際も殆ど全員が熱望し、中には夜中に学生から何度も起こされて自分を第一番にしてもらいたいと言われたこともある。また一人息子だから対象者から外したら、母親から息子を特攻隊員にしてほしいとの嘆願書が来たこともあった」と答えている。また海軍飛行予備学生の2名も「学徒出陣の我々は軍人精神を体得した者とは言えないが、一般人として戦況を痛感し、特攻が最も有効な攻撃法と信じた。我々が身を捧げる事により、日本の必勝を信じ、後輩がよりよい学問を成し得るようにと考えて志願した」と答えている。この事情聴取によって、当初は「アメリカの青年には到底理解できない。生還の道を講ずることなく、国家や天皇の為に自殺しようとする考え方は考える事ができない」と言っていたヘラー准将も、最後には「特攻隊の精神力をやや理解できた。君らのいう事は理に適っており、アメリカ人にも理解できると思う」と話している[365]。, 多数の特攻隊指揮官から隊員の生存者まで尋問した米国戦略爆撃調査団の出した結論は「入手した大量の証拠や口述書によって大多数の日本軍のパイロットが自殺航空任務に、すすんで志願した事は極めて明らかである。機体にパイロットがしばりつけられていたという話[注 14] は実際にそういうことが起きたとしても、一度だけだったであろう。また、戦争最後の数週間前までに、もっとも熱心なパイロットは消耗されつくしたか、あるいは出撃を待っている状態だった事も明らかである。陸海軍両軍とも、新米で訓練不足のパイロットを自殺部隊に割り当てる、つまり志願者を徴集する段階に到達していた。」と原則志願制でありながら、それが既に限界に達していたと分析している[366]。, 「身内の、海軍兵学校卒のエリート士官を温存し、学生出身の予備士官や予科練出身の若い下士官兵ばかりが特攻に出された」という意見があるが[361]、特攻戦没者数の海軍兵学校卒の現役士官、学徒出陣などで学生から採用された海軍予備学生、特務士官以下の構成率は、大戦末期の日本海軍全搭乗員の構成率とほぼ同じであり、単なる人数比に過ぎず、母数を無視してあたかも現役士官が優遇されていたように指摘するのは「軍隊=身内をかばう悪しき組織」とした方が、特攻を批判するのに都合がいいからという意見もある[361]。, 海軍兵学校卒の航空士官の戦没率は、海軍航空予備学生の航空士官の約2.5倍に達している。戦争の激化に伴い、士官の消耗が激しくなったことから、海軍兵学校も55期~65期までの100名~150名であった卒業生の任官を、大幅に増加させる必要に迫られた。66期に219名と200名を突破したあとも年々増加し、70期では432名、そして終戦直前の1945年3月に卒業した74期は1,024名の大量任官となった。しかし、海軍兵学校の現役士官の戦没率は非常に高く、海兵68期卒業生288名の内191名が戦死し戦没率66.32%、海兵69期卒業生343名中222名戦死し戦没率64.72%、70期は433名中287名戦死し戦没率66.28%、71期は581名中329名の56.6%、72期は625名中の337名の53.9%と高水準となっており [370][371]、特に、航空士官の死亡率が高く、例えば1939年に卒業した第67期は全体では248名の同期生の戦没率は64.5%であったが、そのうち86名の航空士官に限れば66名戦没で戦没率76.6%、特に戦闘機に搭乗した士官は16名のうちで生存者はたった1名、艦爆搭乗の士官の13名に至っては全員戦没している[372]。, 海軍兵学校卒の航空士官の補充が到底追いつかなくなった海軍は、海軍飛行予備学生を大量に航空士官として採用せざるを得ず、1943年9月に従来の、大学・旧制高等学校・旧制専門学校卒業見込生という基準を緩和して、旧制師範学校の卒業見込生も有資格者とした。飛行予備学生の人気は高く、50,000名以上の志願者があったが、そのうち約1割の4,726名が選抜されて第13期生として採用された[373]。第13期生は10か月という促成訓練で最前線に送られ、特攻が開始される前に1,607名がすでに戦死している[374]。その後も飛行予備学生は、終戦まで第14期、第一期予備生徒と大量に採用され、沖縄戦開始時点の4月1日時点で、日本海軍の航空士官で海軍飛行予備学生の士官が占める割合は82.4%にも達していた[368]。海軍省に対し、ある航空隊の司令官が「今や、私の航空隊の搭乗員の主力は、第13期予備学生の出身者で占められている。彼らなしでは戦えない。彼らを大量にされたことはまことに有意義なことであった」と報告した通り、日本海軍航空士官の主力は、学徒の海軍飛行予備学生の士官と言っても過言ではない状況となっていたが[375]、それでも、飛行予備学生の大量採用に踏み切った以降の卒業生となる13期、14期、予備生徒1期で合計8,673名中戦没者は2,192名、戦没率25.2%と飛行予備学生全体の戦没率より高めながら、海軍兵学校卒の航空士官の戦没率の半分以下であった[361], しかし、筑波海軍航空隊のように、海軍兵学校卒の航空士官の教官多数が所属していたのに、特攻隊を編成するにあたって、一人も海軍兵学校卒の航空士官が特攻に志願しなかったこともあった。これは、訓練航空隊である筑波海軍航空隊は、戦闘機乗りは戦闘機で敵機と渡り合うのが任務という信念が強く、敵艦に体当たりするだけの特攻には反対という機運が航空隊全体に強かったためとする意見もあるが、筑波海軍航空隊で特攻志願して、第一筑波隊から第五筑波隊として選抜された64名の飛行予備学生の中には不思議に思うものもいたという[376]。その後、沖縄戦の戦局が緊迫すると、2名の海軍兵学校卒の航空士官が特攻に志願して戦没している[377]。筑波海軍航空隊の例のように「飛行予備学生出は海兵出の弾よけであった」など飛行予備学生が不満や不信を抱くことはあった。長岡高等工業学校(現・新潟大学)から飛行予備学生となった陰山慶一中尉は、当時を振り返って「われわれを立派な海鷲の士官として育ててくれた上官、教官には深く感謝し、ともに闘ってきたコレスの(海軍兵学校)72期、79期の飛行学生には、深い友情を覚える」と海軍兵学校卒の航空士官に対してわだかまりはないと述べる者もいる[375]。, 「神風特別攻撃隊」の名称は、命名者の猪口力平中佐によれば、郷里の道場「神風(しんぷう)流」から取ったものである[378]。猪口によれば、大西中将が特攻隊を提案した10月19日の晩、201空副長玉井浅一中佐と相談して「神風を吹かせなければならん」と言って決め、大西中将に採用されたものであるという[379], しかし、大西瀧治郎中将は特攻の戦果発表に関心を持っており、長官に内定した1944年10月5日には海軍報道班員に対して「活躍ぶりを内地に報道してほしい」と依頼していた[380]。また、海軍省による発表の準備も進められており、現場の大西中将に発表方法を相談するために、軍令部から大海機密第261917番電「神風攻撃隊、発表ハ全軍ノ士気昂揚並ニ国民戦意ノ振作ニ重大ノ関係アル処。各隊攻撃実施ノ都度、純忠ノ至誠ニ報ヒ攻撃隊名(敷島隊、朝日隊等)ヲモ伴セ適当ノ時期ニ発表ノコトニ取計ヒタキ処、貴見至急承知致度」(1944年10月13日起案、10月26日発信)が打電された。13日に起案された電文に「神風攻撃隊」という名前が記載されているので、大西が東京を出発する前に中央と名前を打ち合わせていたとも言われる。電文の発信は軍令部第一部長中沢佑少将、起案は軍令部航空部員源田実中佐が担当した。電文には海軍省の人事局主務者による「一航艦同意シ来レル場合ノ発表時機其ノ他二関シテハ省部更二研究ノコトト致シ度」という意見が付されている[381]。特攻隊の編成命令を起案した門司親徳(大西の副官)によれば、起案日は誤記で23日ではないかという[382]。源田は、日付は覚えていないが、神風特攻隊の名前はフィリピンに飛んだ際に大西から直接聞いたと証言している[383]。この電文を特攻の指示、命名の指示と紹介する文献もあるが、現地で特攻の編成・命名が行われたのは20日であり、この電文が現地に発信されたのは26日であるため、この電文は特攻隊の編成や命名に影響を与えていない。, この神風特攻隊の発表は、1944年10月28日の「海軍省公表」で行われた。この公表は敷島隊の戦果だけであり、同じく特攻した菊水隊、大和隊の戦果が同時に発表されなかった。この神風特攻隊発表の筋書きは、講和推進派の海軍大臣米内光政大将と軍令部総長及川古志郎によるものであり、特攻のインパクトのために数より(海軍兵学校出身者による特攻という)質を重視した判断という指摘もある[384]。また、1944年10月初旬から既に新聞・ラジオで「神風」という言葉が頻出するようになっていた[385]。国民が神風特攻隊を知ったのは1944年10月29日の新聞各紙による海軍省公表、特攻第一号・関中佐の記事が最初だった[386]。海軍省公表とともに詳しい記事が各紙で掲載された。, 海軍省公表(昭和十九年十月二十八日十五時)神風特別攻撃隊敷島隊員に関し、聯合艦隊司令長官は左の通全軍に布告せり。 Bill Gordon, an American Japanologist who specialises in kamikazes, lists in a 2007 article 47 ships known to have been sunk by kamikaze aircraft. We tried to live with 120 percent intensity, rather than waiting for death. Two 100 kg (220 lb) bombs were attached to two fighters, and the pilots took off before dawn, planning to crash into carriers. [30], In early 1945, U.S. Navy aviator Commander John Thach, already famous for developing effective aerial tactics against the Japanese such as the Thach Weave, developed a defensive strategy against kamikazes called the "big blue blanket" to establish Allied air supremacy well away from the carrier force. [58], Some Japanese military personnel were critical of the policy. The First Naval Air Technical Bureau (Kugisho) in Yokosuka refined Ohta's idea. [52][50], The manual was very detailed in how a pilot should attack. The British were able to clear the flight deck and resume flight operations in just hours, while their American counterparts took a few days or even months, as observed by a U.S. Navy liaison officer on HMS Indefatigable who commented: "When a kamikaze hits a U.S. carrier it means six months of repair at Pearl Harbor. A Foreign Office official named Toshikazu Kase said: "It was customary for GHQ [in Tokyo] to make false announcements of victory in utter disregard of facts, and for the elated and complacent public to believe them."[54]. By 17:00, Corsairs were able to land. On 9 May, Formidable was again damaged by a kamikaze, as were the carrier HMS Victorious and the battleship HMS Howe. As the end of the war approached, the Allies did not suffer more serious significant losses, despite having far more ships and facing a greater intensity of kamikaze attacks. All of the pilots raised both of their hands, volunteering to join the operation. Many of the kamikaze pilots believed their death would pay the debt they owed and show the love they had for their families, friends and emperor. [2] Kamikaze attacks were more accurate than conventional attacks, and often caused more damage. When a kamikaze hits a Limey carrier it's just a case of 'Sweepers, man your brooms'.". Japan was losing pilots faster than it could train their replacements, and the nation's industrial capacity was diminishing relative to that of the Allies. [52], Irokawa Daikichi, Kamikaze Diaries: Reflections of Japanese Student Soldiers, Pilots were given a manual that detailed how they were supposed to think, prepare and attack. La serie consta de 6 temporadas de 22 episodios cada uno y con un total de 132, el último de los cuales se emitió el 6 de mayo de 2005. Early successes – such as the sinking of USS St. "After the war, some commanders would express regret for allowing superfluous crews to accompany sorties, sometimes squeezing themselves aboard bombers and fighters so as to encourage the suicide pilots and, it seems, join in the exultation of sinking a large enemy vessel." 神風特別攻撃隊(しんぷうとくべつこうげきたい[1]、かみかぜとくべつこうげきたい[2])は、第二次大戦(大東亜戦争)で大日本帝国海軍によって編成された爆装航空機による体当たり攻撃部隊(特別攻撃隊)と直接掩護並びに戦果確認に任ずる隊で構成された攻撃隊[3]。攻撃目標は艦船[4]。略称は「神風」「神風特攻隊」[5]。隊名の発案者・猪口力平によれば、「神風」の読みは音読みの「しんぷう」であるが、当時のニュース映画で訓読みの「かみかぜ」と読み上映したことでその読みが定着した他、アメリカ軍が神風を読み間違えて「カミガゼ」と呼んでいたので、戦後、カミガゼと連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が統制したという[1]。, 本土決戦に備えて白兵戦を想定した民間有志による「神風特攻後続隊」が昭和20年(1945年)に組織されたほか[6] 、特攻全般を「神風」と呼称することもあるが、ここでは制度上の神風特別攻撃隊について述べる。, 捷号作戦時に大西瀧治郎中将によって定められた神風特別攻撃隊の編成、隊員の扱いは次の通り。神風特別攻撃隊は爆装体当たり攻撃隊と直接掩護並びに戦果確認に任ずる隊で構成し、一攻撃単位の編成基準は概ね、爆装体当たり攻撃隊を爆戦(爆装戦闘機)、艦爆(艦上爆撃機)、水爆による3~4機、掩護ならびに戦果確認部隊は戦闘機、艦偵(艦上偵察機)2~3機。隊名は編成時期、ならびに爆装の機種により、第一、第二神風特別攻撃隊と呼称し、さらに各攻撃単位に対し、特別隊名を付与する。隊名は第一聯合基地航空部隊指揮官が命名する。隊員の官職氏名は事前に発表せず、任務を完遂したもののみ事後に発表する。一攻撃単位の全機が未帰還で不明の場合で完遂したと推定されるもの、直掩隊で任務中自爆したと推定される者は完遂した者と同じ取り扱いとする。正式発表(報告)は各司令官、司令の報告に基づき、認定の上、第一聯合基地航空部隊司令部において行う[7]。, 神風特攻隊の当初の目標は、敵空母の使用不能であり、初回の攻撃でその目標を達成したが、レイテ島付近で戦闘が続いた(「フィリピンの戦い (1944-1945年)」参照)。このため、目標を敵主要艦船に広げて、1945年1月下旬には全ての敵艦船が目標になった[8]。, 最初の神風特攻隊を編成した1944年10月20日、零戦を改修したものを利用した。改修は、元々は零戦で反跳爆撃の訓練が行われていたため、250キロ爆弾を搭載でき、爆弾発火装置を作動状態にするために風車翼螺止ピアノ線を操縦者が機上から外せるようにするだけでよく、体当たり直前に操縦者が抜ける簡単な装置であった。その後、500キロ爆弾になり、艦爆その他も特攻に使われるが、特別工作を必要とするものではなく、1945年以降も爆装さえしていれば、特攻に使用する機体は問題にするほどの工作は不要だった[9]。, 大西瀧治郎が創設した神風特別攻撃隊は城英一郎の研究を着想にしている[10]。霞ヶ浦海軍航空隊で山本五十六・大西・城は親密な関係にあった[11]。また、城英一郎は1926年(大正15年)8月20日に結婚しており、これにより山本栄少佐(山本も同時期に霞ヶ浦海軍航空隊所属)の義弟となった[11]。山本栄は最初の神風特別攻撃隊が編成された第二〇一海軍航空隊司令である[11]。, 1931年(昭和6年)12月1日、城英一郎少佐は海軍大学校卒業時の作業答案を山本五十六少将(海軍航空本部技術部長)に提示、将来の航空機について山本の意見を聞く[12]。この時に2人は「最後の手は、肉弾体当たり、操縦者のみにて爆弾搭載射出」として航空機の体当たり戦術を検討した[12][13]。1934年(昭和9年)、第二次ロンドン海軍軍縮会議予備交渉に参加した山本五十六少将は新聞記者に対し「僕が海軍にいる間は、飛行機の体当たり戦術を断行する」「艦長が艦と運命を共にするなら、飛行機も同じだ」と語った[14][15]。, 1941年(昭和16年)12月、大東亜戦争が勃発。1943年(昭和18年)2月中旬頃、日本軍はB-29型超重爆の開発情報を掴み、春頃に「B-29対策委員会」を設置した[16]。4月17日、東條英機陸軍大臣は局長会議で敵超重爆や防空の心構えについて語った際「一機対一機の体当たりで行く」「海軍ではすでに空母に対し体当たりでゆくよう研究訓練している」と述べ、特攻精神を強調している[16][注 1]。, 1943年4月18日、山本五十六大将(連合艦隊司令長官)が戦死した[17][18]。同年6月5日、城英一郎大佐(昭和天皇侍従武官)は、特別縁故者として山本元帥の葬儀に参列[13][19]。かつて山本と「航空機体当たり」を検討した事を回想する[13][19]。同年6月22日、城は自らを指揮官とする「特殊攻撃隊」の構想をまとめる[19][20]。投入予定海域はソロモン諸島およびニューギニア方面で、敵大型艦(戦艦、空母)は大破、特設空母(軽空母)や巡洋艦は大破または撃沈、駆逐艦や輸送船は撃沈を期待というものだった[21]。6月29日、城は、特殊航空隊の構想を海軍航空本部総務部長大西瀧治郎中将に説明した[19][22]。数回の意見具申に対し大西は「(意見は)了解したがまだその時期ではない」と返答し、全幅の賛同を示さなかった[23][24][25]。ニュージョージア島の戦い勃発により戦局が悪化する中、城は「特殊航空隊の緊急必要」を痛感する[26]。「上司としても計画的に実行するには相当の考慮が必要である。自身としては黙認が得られて、航空機と操縦者が得られれば実行可能であり、転出して実行の機会を待つ」の心境であり[19][25]、その後も個人的に特攻隊について研究し、海軍航空本部の高橋千隼課長等にも相談していた[19][27][28]。, 1944年(昭和19年)6月下旬、日本海軍はマリアナ沖海戦に大敗(城も「千代田」艦長として参加)[29]。城は大西に対して再び特攻隊の編成を電報で意見具申している[30]。また第一機動艦隊司令長官小沢治三郎中将、連合艦隊司令長官豊田副武大将、軍令部総長及川古志郎大将にも「体当たり攻撃以外に戦勢回復の手段はない」との見解を上申した[29]。, マリアナ沖海戦後、岡村基春大佐も大西へ対して特攻機の開発、および特攻隊編成の要望があった[31]。さらに、第二五二海軍航空隊(252空)司令舟木忠夫大佐も「体当たり攻撃(特攻)以外、空母への有効な攻撃は無い」と大西に訴え[32]、大西自身もこの頃には「何とか意義のある戦いをさせてやりたいが、それには体当たりしか無い。もう体当たりでなければいけない」と周囲に語っていた[33]。既にこの頃、日本海軍の中央で特攻兵器の研究は進められていたが、これは神風特攻隊とは関係無い別物だった[34]。, 中央で着々と航空特攻開始に向けての機運が高まる中、前線では未だ通常の航空作戦によるアメリカ軍艦隊の迎撃策の準備が進められていた。次にアメリカ軍の侵攻が予想されるフィリピンに配置されていた第二〇一海軍航空隊では、零式艦上戦闘機を爆戦として運用し、急降下爆撃でアメリカ軍艦隊を攻撃しようと計画しており、副長玉井浅一中佐のもとで連日猛訓練を行っていた[35]。しかし、戦闘機搭乗員には急降下爆撃は難易度が高く、より容易な反跳爆撃に攻撃方法を変更してその訓練を行うこととしている[36]。, 1944年9月に入ると、フィリピンミンダナオ島の第一航空艦隊司令部があるダバオは連日のようにアメリカ軍の空襲を受けるようになり、日本軍はミンダナオ島にアメリカ軍が上陸してくる可能性が大きいとして警戒を強めていたが、9月10日の午前4時に第32特別根拠地隊サランガニ見張所が「湾口に敵上陸用舟艇が見える」との報告を行った。一航艦隊司令部は夜明けを待って偵察機で情報を確認することとしたが、夜明を待たずに敵発見の第一報をした第32特別根拠地隊が「いま、根拠地隊では『総員戦闘用意』の号令がかかったところ」「敵戦車15,000mまで接近」などと具体的な続報を送ってきて、最後には「敵は上陸を開始しました。根拠地隊司令部はミンタル(陸軍の師団司令部所在地)に出かけます」という報告があったことから、一航艦司令の寺岡謹平中将は、航空機をセブ島に退避させ、司令部はバレンシアに後退することと決めた[37]。しかし、敵上陸に確信が持てなかった一航艦隊猪口力平主席参謀は小田原俊彦参謀長と松浦参謀に、ダバオ第1飛行場に残った零戦で湾内を偵察するように指示、また猪口の指示とは別に、第二〇一海軍航空隊(201空)副長玉井浅一中佐も零戦で偵察飛行をした結果、10日夕方になって、敵上陸はまったくの誤報であることがわかり、「敵上陸の報告は全部取り消し」と慌てて全部隊に打電している[注 2][38][39][40]。この事件はのちに海軍最大の不祥事の一つとして、「ダバオ誤報事件」(または平家の大軍が、水鳥が立てた羽音を源氏の襲来と誤認して逃げ散った「富士川の戦い」の故事に因んでダバオ水鳥事件とも)とよばれることになった[41] 。この誤報によりセブ島に集中していた航空機のうち、ダバオへの帰還が遅れた約100機が9月12日にアメリカ軍の空襲を受けて、地上で80機を撃破されるという大失態を演じているが、このうち50機が主力戦闘機の零戦であり、一航艦はアメリカ軍上陸前に戦力をすり潰してしまった[42] 。, 「ダバオ誤報事件」で戦力を消耗した201空ではあったが、9月22日、その報復としてこれまで爆戦隊の訓練を取り仕切ってきた戦闘301飛行隊長鈴木宇三郎海軍大尉が指揮官となり、爆戦の零戦十数機を率いて出撃しアメリカ軍機動部隊への攻撃を行っている。その後の9月25日、爆戦隊の指揮と訓練指導を期待されて艦上爆撃機の搭乗員で訓練教官でもあった関行男大尉が、戦闘301飛行隊の分隊長として着任し、のちに台湾沖航空戦で鈴木が戦死したため、その後任として戦闘301飛行隊長に昇進している[43]。, 1944年(昭和19年)10月5日、ダバオでの失態もあって寺岡が更迭され、大西が第一航空艦隊司令長官に内定すると、軍需局を去る際に局員だった杉山利一に対して「向こう(第一航空艦隊)に行ったら、必ず(特攻を)やるからお前らも後から来い」と声をかけた。これを聞いた杉山は、大西自らが真っ先に体当たり特攻を決行するだろうと直感したという[44]。大西は出発前、海軍省で海軍大臣米内光政大将に「フィリピンを最後にする」と特攻を行う決意を伝えて承認を得ていた[45]。また、及川古志郎軍令部総長に対しても決意を語ったが、及川は「決して(特攻の)命令はしないように。(戦死者の)処遇に関しては考慮します」[46]「(特攻の)指示はしないが、現地の自発的実施には反対しない」と承認した。それに対して大西は「中央からは何も指示をしないように」と希望した[47]。大西は、軍令部航空部員源田実中佐に戦力を持って行きたいと相談するが、源田は現在それが無いことを告げ、その代わりとして零戦150機を準備すると約束した。その際にも、大西は場合によっては特攻を行うという決意を話した[48]。, 同年10月9日、大西はフィリピンに向けて出発したが、台湾沖航空戦が開始されており、途中で台湾に立ち寄って新竹で航空戦の様子を見学した。日本軍の苦戦ぶりを見て愕然とし、多田武雄中将に対して「これでは体当たり以外無い」と話している。大西は台湾入りしていた連合艦隊司令長官豊田副武大将とも面会し「大戦初期のような練度の高い者ならよいが、中には単独飛行がよっとこせという搭乗員が沢山ある、こういう者が雷撃爆撃をやっても、被害に見合う戦果を期待できない。どうしても体当たり以外に方法はないと思う。しかし、命令では無くそういった空気にならなければ(特攻は)実行できない」と語っている[49]。台湾沖航空戦ではアメリカ軍空母に殆ど損害を与えていなかったのにも拘らず、大本営は戦果誤認で大戦果を報じ、軍令部はフィリピンの一航艦にも追撃を命じた。第26航空戦隊司令の有馬正文中将は、常々「司令官以下全員が体当たりでいかねば駄目である」「戦争は老人から死ぬべきだ」と言っていたが[50]、出撃命令が下ると、従軍記者に対して「日本海軍航空隊の攻撃精神がいかに強烈であっても、もはや通常の手段で勝利を収めるのは不可能である。特攻を採用するのはパイロットたちの士気が高い今である」と述べて、1944年10月15日に、参謀や副官が止めるのも聞かず司令自ら一式陸攻に搭乗した。有馬は出撃時に軍服から少将の襟章を取り外し、双眼鏡に刻印されていた司令官という文字も削り取っており、最初から帰還するつもりはなかった[51]。有馬が搭乗した一式陸攻はアメリカ軍機動部隊の150㎞前方でレーダーで発見されて、艦載戦闘機の迎撃で撃墜されて、有馬は敵艦隊に達することなく戦死した[50]。しかし、有馬の特攻出撃を知った大西はより航空特攻開始への意を強くし、フィリピンで作戦中の陸軍第二飛行師団参謀の野々垣四郎中佐によれば「これは大きなショックを感じ、その後の特攻へ踏み切る動機となった」と、陸軍の航空特攻開始にも影響を与えている[52]。, 大西はフィリピンに到着すると、前任者の寺岡に「基地航空部隊は、当面の任務は敵空母の甲板の撃破として、発着艦能力を奪って水上部隊を突入させる。普通の戦法では間に合わない。心を鬼にする必要がある。必死志願者はあらかじめ姓名を大本営に報告し、心構えを厳粛にして落ち着かせる必要がある。司令を介さず若鷲に呼び掛けるか…。いや、司令を通じた方が後々のためによかろう。まず、戦闘機隊勇士で編成すれば他の隊も自然に続くだろう。水上部隊もその気持ちになるだろう。海軍全体がこの意気で行けば陸軍も続いてくるだろう」と語り、必死必中の体当たり戦法しか国を救う方法はないと結論して、寺岡から同意を得て一任された[53]。, 寺岡から同意を得た大西は、フィリピンで第一航空艦隊参謀長小田原俊彦少将を初めとする幕僚に、特攻を行う理由を「軍需局の要職にいたため最も日本の戦力を知っており、重油・ガソリンは半年も持たず全ての機能が停止する。もう戦争を終わらせるべきである。講和を結ばなければならないが、戦況も悪く資材もない現状一刻も早くしなければならないため、一撃レイテで反撃し、7:3の条件で講和を結んで満州事変の頃まで大日本帝国を巻き戻す。フィリピンを最後の戦場とする。特攻を行えば天皇陛下も戦争を止めろと仰るだろう。この犠牲の歴史が日本を再興するだろう」と説明した[54][注 3]。, 同年10月19日、大西はマニラ艦隊司令部にクラーク空軍基地の761空司令前田孝成大佐、飛行長庄司八郎少佐と、マバラカット基地の201空司令山本栄中佐、飛行長中島正少佐を呼び出し、司令部内にて特攻の相談を行おうとしたが、前田・庄司は司令部に到着して相談できたものの、山本・中島は、午後の攻撃隊の出撃を見送ったのちに、車でマニラを目指したため到着が遅れ、大西は何かあったと心配して自らマバラカットに出向くことにし、すれ違いとなった[56]。すれ違いとなった山本は、マニラ東部の二コルス基地に出向き、中島の操縦する零戦の胴体に乗り込んでマバラカット基地を目指したものの、中島が操縦する零戦は発動機が故障し、水田の中に不時着してしまった。2人は通りかかった陸軍のトラックに救助されたが、中島は顔面に軽傷を負っただけで済んだものの、山本は左足を骨折していた[57]。山本は再びマニラの司令部に戻ると、軍医の応急手当を受けながらすぐに小田原俊彦参謀長に電話をし、小田原から今日の大西の要件が特攻開始の打診で会ったことを聞くと、「当隊は長官のご意見とまったく同一であるから、マバラカットに残っている(玉井浅一)副長とよくお打ち合わせくださるよう」と大西に伝えて貰うよう依頼している[58]。, 1944年(昭和19年)10月19日夕刻、マバラカット飛行場第201海軍航空隊本部で大西、201空副長玉井浅一中佐、一航艦首席参謀猪口、二十六航空戦隊参謀兼一航艦参謀吉岡忠一中佐が集合し、特攻隊編成に関する会議を開いた。大西は「空母を一週間くらい使用不能にし、捷一号作戦を成功させるため、零戦に250kg爆弾を抱かせて体当りをやるほかに確実な攻撃法は無いと思うがどうだろう」と提案した[59]。一同は、爆弾の効果としては、飛行機と一緒に突っ込ませるよりも、高い高度から投下した方が破壊力は大きいという理解であったが、もはや通常の爆撃法には期待はもてないのであれば、威力は多少減殺しても確実に命中できる方法(体当り)をとるべきという認識は共有できたものの、すぐに結論をだすことはできなかった[56]。これに対して玉井はまず吉岡に、「零戦に250キロ爆弾を積んで体当りをやってどのくらい効果があるものだろうか?」と尋ねたところ、吉岡は、「空母の飛行甲板を破壊し発着艦を阻止すること位は出来ると思います」と答えている[60]。その答えを聞いた玉井は、司令の山本が不在だったために「ご主旨はよくわかりましたが、201空から特攻隊の搭乗員を出すということになると、司令や飛行長の意向も計らねばなりません」と返答したが、大西は押し通すように「司令たちはマニラに呼んだが、一向に着かない。今は副長の意向を司令の意向と考えたいがどうか」と特攻を決行するかは玉井に一任した[61]。玉井は時間をもらい、飛行隊長指宿正信大尉・横山岳夫大尉と相談した結果、体当たり攻撃を決意して大西にその旨を伝えたが、その際に特攻隊の編成は航空隊側に一任して欲しいと大西に要望し、大西はそれを許可した[62]。, 「指揮官の選定は海軍兵学校出身者を」という猪口の意向を受け、玉井は戦闘第301飛行隊長の関行男を指名した。玉井が関を思いついた理由としては、戦闘の合間を見ては、再三再四にわたって熱心に戦局に対する所見を申し出て出撃への参加を志願し、玉井の脳裏に「この先生なかなか話せる男だ」という強い印象が残っていたからとされているが[63]、猪口も兵学校教官時代から関のことを、テニス好きのスマートな男だが、気は強い男と熟知しており、異存はなかった[64]。猪口の賛同を得た玉井は、就寝中の関を起こしに従兵を関の私室に行かせた。関はこのとき熱帯性下痢を患い軍医の指示で絶食し静養中であったが、やがてカーキ色の第三種軍装を身に着けて玉井に部屋を訪れた。玉井は関に椅子をすゝめ、腰かけた関の肩を抱くようにして「今日大西長官が201空に来られ、捷一号作戦を成功させる為、空母の飛行甲板に体当たりをかけたいという意向を示された。そこで君にその特攻隊長をやってもらいたいんだがどうかね」と告げた[65]。猪口によれば、関は指名された際にその場で熟考の後「ぜひやらせて下さい」と即答したという[66]。熟考の時間はわずか数秒という証言もあるが[67]、即答はできずに、「一晩考えさせて下さい」と逡巡したが、玉井がさらに「どうだろう、君が征ってくれるか」と念を押したため、結論を先延ばしすることはできないと決断し、「承知しました」とたった一言で返答したとする証言もある。その際、玉井はほっとし、「頼む、最初は海兵出身が指揮をとるべきだと思う。貴様が一番最初に行ってくれると大助かりだ。全軍の士気の問題だ」と関に感謝の言葉を述べたという[68]。戦後に玉井が関の慰霊祭に参席した際に、関が「一晩考えさせて下さい」と即答を避けたのち、翌朝になって「引き受けます」と承諾したなどと友人に話しているが、これは、関が了承したあとの経緯から見ても時系列的に矛盾することが多く、玉井の記憶違いである[69]。関が了承した後、玉井と関は士官室兼食堂に移動したが、そこに大西と猪口と大西の副官の門司親徳中尉も合流した。猪口は関に「関大尉はまだチョンガー(独身)だっけ」と語りかけたが、関は「いや」と言葉少なに答え、猪口は「そうか、チョンガーじゃなかったか」と言った。その後関は「ちょっと失礼します」と一同に背を向けて薄暗いカンテラの下で新婚の妻満里子と父母に対する遺書を書き始めた[70]。, その後、特攻隊の編成を一任された玉井は、自分が育成した甲飛(甲種海軍飛行予科練習生)10期生を中心に33名を集めて「大西長官より次なる作戦実施方法が指令された。それは特攻作戦である。今この基地にある零戦に250キロ爆弾を抱かせ敵空母に体当りする事である」「これは絶対に生還することの出来ない無常なものであるが、これは絶対にやらなければならない事である。ただしながらこの作戦行動と戦果のすべてが日本の歴史に燦然と輝き残るのである」「私はこの輝かしい歴史の1頁を甲十期搭乗員のお前らに飾らせてやりたいと思ったからだ」「お前たちは誰より可愛い。だから一番可愛いお前たちを日本の歴史に其の名を載せて、悠久の神として祭ってやりたいのだ。この気持ちをわかって欲しい。ただし、これは命令ではない。あくまでもお前たちの志願である」と特攻への志願を募った[71]。玉井から集合を命じられたのは、日頃の労をねぎらって豪華な食事をご馳走してもらえるぐらいに考えていた搭乗員たちは、突然の特攻志願の募集に、一瞬大きなショックを受け、毎日決死の思いで戦っているこの状況ですら、もはや間に合わない状況なのか?と一同は暫し沈黙を続けて、部屋は重苦しい空気に包まれた。そこで、副長が「この国難を救う為に率先志願したい者は挙手してほしい」と再度志願を募った[72]。, この後は関係者によって記憶が異なっており、玉井は戦後の回想で、大西の特攻に対する決意と必要性を説明した後に志願を募ると、皆が喜びの感激に目をキラキラさせて全員が挙手して志願したと話している[73]。志願した山桜隊・高橋保男によれば「もろ手を挙げて(特攻に)志願した。意気高揚[74]」、同じく志願者の井上武によれば「中央は特攻に消極的だったため、現場には不平不満があり、やる気が失せていた。現場では体当たり攻撃するくらいじゃないとだめと考えていた。志願は親しんだ上官の玉井だったからこそ抵抗なかった」という[75]。一方で、志願者の中には特攻の話を聞かされて一同が黙り込む中、副長の言葉ののちに、気持ちの整理がついた者からぽつりぽつりと重そうに手が上がったという者や[72]、副長ではなく玉井が再度、「行くのか?行かんのか?」と一喝したことで、一同の手がすぐに上がったと証言する者や[76]、志願した浜崎勇は「仕方なくしぶしぶ手をあげた[77]」、佐伯美津男は「強制ではないと説明された。零戦を100機近く失った201空の責任上の戦法で後に広がるとは思わなかった」と話している[78]。そうやって募った志願者のなかから、最終的に24名の特攻隊を編成した[76][注 4]。, 猪口は、郷里の古剣術の道場である「神風(しんぷう)流」から名前を取り、特攻隊の名称を「神風隊というのはどうだろう」と提案し、玉井も「神風を起こさなければならない」と同意した。また大西は、各隊に本居宣長の和歌「敷島の 大和心を 人問わば 朝日に匂ふ 山桜花」から敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊と命名した[81]。しかし、大西がフィリピンに出発する前に、軍令部で航空特攻開始について参謀の源田と打ち合わせした際には「神風攻撃隊」との特攻隊全体の名称と、敷島、朝日隊等の部隊名は既に決まっており、その隊名に基づいて大海機密第261917番電も作成されていたため、「神風特別攻撃隊」の実際の命名者は誰であるのか判然としない[82]。, 1944年(昭和19年)10月20日朝、マバラカットにいた大西が副官の門司と朝食をとっていると玉井がやってきて「揃いました」と報告してきた。大西らが宿舎の中庭に出ると20数名の搭乗員が整列しており、右の先頭に関が立っていた。整列した特攻隊員の前には木箱が置いてあり、大西は木箱の上に立つと午前10時に特攻隊員に向けて訓示を行った[83]。, この体当り攻撃隊を神風特別攻撃隊と命名し、四隊をそれぞれ敷島、大和、朝日、山桜と呼ぶ。今の戦況を救えるのは、大臣でも大将でも軍令部総長でもない。それは若い君たちのような純真で気力に満ちた人たちである。みんなは、もう命を捨てた神であるから、何の欲望もないであろう。ただ自分の体当りの戦果の戦果を知ることが出来ないのが心残りであるに違いない。自分は必ずその戦果を上聞に達する。国民に代わって頼む。しっかりやってくれ。, 訓示の途中、大西の身体は小刻みに震え、顔は蒼白で引きつっていた。同席していた報道班員の日本映画社稲垣浩邦カメラマンも撮影もせずに聞き入っていた。門司も深い感慨を覚えたが、涙が出ることは無く、行くとこまで行ったという突き詰めた感じがしたという[83]。そのあと、大西は特攻隊員一人一人と握手すると再び宿舎の士官室に戻って、神風特攻隊編成命令書の起案を副官の門司に命じたが、門司はそんな命令書を作った経験もなく戸惑っていたので、大西と猪口も手伝って起案され、命令書は、連合艦隊、軍令部、海軍省など中央各所に発信された[84]。, 機密第202359番電 1944年10月20日発信 The important Japanese base of Saipan fell to the Allied forces on 15 July 1944. 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